1. 何があったのか

USTCチームは107量子ビット超伝導量子プロセッサZuchongzhi 3.2の上で、距離7(d=7)の表面符号(surface code)を実装し、論理エラー率がコード距離の増加とともに指数関数的に低下することを実証した。エラー抑制係数Λ(ラムダ)は1.40±0.06で、これは閾値以下(below threshold)で動作していることを意味する。論理エラーは距離3、距離5、距離7と増やすほど減少し、量子誤り訂正が正味のプラスを生む領域に入った。

核心となる技術的貢献は、Googleとは異なる全マイクロ波制御による量子状態漏れ抑制アーキテクチャを提案・実装した点。漏れ集団を平均で72分の1に抑制し、40サイクル後で6.4(5)×10⁻⁴という低水準を達成した。読み出しエラー率は300ナノ秒の窓内で0.95%。米国以外の研究グループとして初めて、表面符号における閾値以下の動作を達成したと位置づけられている。

2. なぜ今までできなかったのか

量子誤り訂正(QEC)の最大の壁は漏れ(leakage)と呼ばれる現象にあった。

漏れとは何か、ポイントで整理する。

  • 超伝導量子ビットは計算に使う2つのエネルギー状態(0と1)の上に、さらに高いエネルギー状態(2、3...)を持つ。

  • 量子操作中に、量子情報がこの計算用ではない高エネルギー状態へ漏れ出ることがある。

  • 漏れた状態は寿命が長く、誤り訂正の符号空間の外にいるため、表面符号のデコーダがうまく対処できない。

  • 結果として、漏れは時間と空間にまたがる相関エラーを引き起こし、表面符号のスケーラビリティを根本から損なう要因となっていた。

例えるなら、サッカーの試合中にボール(量子情報)がフィールドの外に転がり出て、しかも長時間そこに留まり続けるようなもの。審判(誤り訂正)は基本的にフィールド内のプレーしか見ていないので、外に出たボールが他の選手に影響を与えても気づかない。

Googleは2024年のWillowで、直流(DC)パルスを使った専用ハードウェアでこの漏れを抑え込む方式を採用した。ただしこの方法には次のトレードオフがある。

  • 量子ビット1つごとに追加のDCパルス配線が必要になる。

  • 希釈冷凍機(数十mK)の中に通す配線数が膨大になる。

  • チップレイアウトに制約が生まれ、配線密度がスケーリングの瓶頸になる。

  • 数千、数百万量子ビット規模では物理的に成立しにくくなる可能性がある。

3. 既存技術との比較

項目

Google Willow(2024)

今回のZuchongzhi 3.2

量子ビット数

105

107

表面符号距離

d=7

d=7

漏れ抑制方式

DCパルス(ハードウェア依存)

全マイクロ波(ソフトウェア制御)

エラー抑制係数 Λ

2.14±0.02

1.40±0.06

論理量子ビット寿命

物理量子ビットの2.4倍(break-even達成)

同水準には未到達(と報じられている)

追加配線

量子ビットごとにDC配線が必要

追加配線不要

スケーラビリティ

配線密度が制約

マイクロ波多重化により制約緩和

発表時期

2024年12月

2025年12月22日

掲載誌

Nature

Physical Review Letters(表紙、Editors' Suggestion)

4. どうやって実現したのか

最初に用語を整理する。

表面符号(surface code)は、量子誤り訂正の代表的なコード。物理量子ビットを2次元格子に並べ、データ量子ビットとアンシラ(補助)量子ビットを交互配置することで、論理量子ビット1つを構成する。コード距離(d)は誤り訂正能力の指標で、距離が大きいほど多くの誤りを訂正できる。距離7なら片側3個までの誤りを訂正可能。

閾値(threshold)は、物理エラー率がここを下回ると、コード距離を大きくするほど論理エラー率が指数関数的に下がる境界。表面符号では物理エラー率1%程度が目安。閾値以下で動作することは、誤り訂正がスケーリング可能であることの数学的な証明になる。

エラー抑制係数Λは、コード距離をd-2からdに増やしたときに論理エラー率が何分の1になるかを示す比。Λ>1が閾値以下動作の条件で、Λ=2なら距離を2増やすごとに論理エラー率が半減する。

USTCチームの仕組みはこうなる。

107量子ビットのうち97量子ビットを使って距離7の表面符号を構成。データ量子ビットとアンシラ量子ビットを2次元格子に配置する。

漏れ抑制では、Googleが使うDCパルスではなく、慎重にタイミング設計されたマイクロ波信号で量子ビットを意図した状態に保つ。具体的には、漏れ低減ユニット(LRU)とアンシラ量子ビットの高速無条件リセットを組み合わせ、サイクル末尾でアンシラの読み出しとリセット、データ量子ビット側のLRUと動的デカップリングを並列実行するパイプライン構造を採用。1サイクルの総時間は約1マイクロ秒に圧縮されている。

マイクロ波は既存の制御配線で多重化送信できるため、追加のハードウェア配線が要らない。これがスケーラビリティ上の決定的な利点になる。

5. 何ができたのか(成果)

指標

数値

業界水準・参照

物理量子ビット数

107

Google Willow 105

表面符号距離

d=7

Google Willow d=7と同等

エラー抑制係数 Λ

1.40(6)

Google Willow Λ=2.14

漏れ集団の抑制

72分の1

40サイクル後で6.4×10⁻⁴

読み出しエラー率

0.95%(300ns窓)

業界トップ水準

1サイクル時間

約1マイクロ秒

高スループット

配線追加

不要(マイクロ波多重化)

Googleは量子ビットごとDC配線

技術的意義は3点に整理できる。

1つめは、米国(Google)以外の研究機関として初めて閾値以下動作を達成した点。閾値以下で動作することは、量子コンピュータが誤り訂正を増やせば増やすほど性能が良くなるフェーズに入ったことを意味し、誤り耐性量子計算(FTQC)の前提条件となる。

2つめは、Λ=1.4はGoogleのΛ=2.14より低いものの、まったく異なるアーキテクチャで閾値を超えた事実そのものに意味がある。表面符号の閾値以下動作は、特定のハードウェア設計の偶然ではなく、超伝導量子計算の本質的な性質として再現可能であることを示した。

3つめは、配線密度がスケーリングのボトルネックになる可能性が指摘される中で、マイクロ波制御の経路を確立した点。100万量子ビット級の誤り耐性システムへのより効率的なルートになる可能性があると独立の専門家(Waterloo大学のJoseph Emerson氏)も評価していると伝えられている。

6. この技術が広がると何が起きるか

応用分野とインパクトを整理する。

領域

インパクト

超伝導量子コンピュータ

配線オーバーヘッドの大幅な削減、100万量子ビット級への現実的な道筋

誤り耐性量子計算(FTQC)

表面符号のスケーリングが特定企業の独占ではなくなる

創薬・材料設計

大規模な分子シミュレーションの実用化が加速する可能性

暗号解読・耐量子暗号

RSA・ECC暗号への現実的脅威が前倒しになる可能性、PQC移行を加速

国家間競争

米中の量子覇権競争が本格化、欧州・日本の戦略も再考を迫られる

半導体・極低温装置

関連サプライチェーンへの研究投資が継続

社会的意義として最も重要なのは、量子コンピュータの誤り耐性という最終ゴールが、特定の企業の特定のアーキテクチャに依存するものではないと示された点。これまでGoogleにしかできないと思われていたことが、独立した経路で再現可能であることが分かった。これは技術リスクの分散を意味し、量子コンピュータ全体の投資価値を底上げする要素になりうる。

加えて、暗号解読の現実味という社会的影響も無視できない。耐量子暗号(PQC)への移行は米NISTが2024年に標準アルゴリズムを確定し、各国政府・大企業が2030年代前半までの移行を急いでいるが、中国が独自の道筋でFTQCに近づいたことで、移行の緊急性はさらに高まる可能性がある。

7. 関連企業・市場動向

企業

関連分野

ティッカー

Alphabet (Google)

超伝導量子(Willow)

GOOGL

IBM

超伝導量子(Heron、Condor)

IBM

Rigetti Computing

超伝導量子

RGTI

IonQ

イオントラップ量子

IONQ

D-Wave Quantum

量子アニーリング

QBTS

Quantum Computing

フォトニック量子

QUBT

Microsoft

トポロジカル量子(Station Q)

MSFT

Honeywell/Quantinuum

イオントラップ量子(非上場、Honeywellが出資)

HON

Oxford Instruments

極低温装置(間接受益)

OXIG.L

日本電気・富士通

超伝導量子(国内勢、間接関連)

6701.T, 6702.T

投資視点で整理すると、今回の成果は超伝導量子方式の本質的な競争力を再確認させる材料になる。Google(Alphabet)とIBMが牽引する超伝導陣営は、配線のスケーラビリティという長期課題に対し、マイクロ波制御という解決経路があることをUSTCに示されたかたち。これは超伝導方式全体への信頼度を高める要素と捉えられる可能性がある。

一方で、純粋プレイヤーのRigetti、IonQ、D-Waveなどは、それぞれ異なる方式で勝負しており、超伝導以外の選択肢の重要性も同時に再認識される構図。中国勢の躍進は米中技術覇権の文脈で語られるため、地政学的なリスク要因として量子セキュリティ関連銘柄(SEALSQ、Arqit Quantum、Quantinuum関連など)が連想されやすい。

ただし投資判断は読者各自の責任で行うべきであり、本記事は技術解説を目的としている。量子コンピュータ関連銘柄は短期的なボラティリティが大きく、ニュースに対する株価反応も読みにくい点に注意したい。

8. 課題と今後の展望

冷静に見るべき残課題は多い。

第1に、エラー抑制係数Λ=1.4はGoogleのΛ=2.14と比べて低い水準にある。閾値を超えた事実は重要だが、論理量子ビットの寿命が物理量子ビットの寿命を超えるbreak-evenまでは到達していないと報じられており、性能面でGoogleにキャッチアップしたとは言えないとみられる。

第2に、論理ゲートの実証はまだ。Quantinuum(イオントラップ)が示したような複数論理量子ビット間の論理ゲート操作や、Magic state distillation(マジック状態蒸留)といった次のマイルストーンには未到達。量子メモリとしての動作実証にとどまっている可能性がある。

第3に、単一論理量子ビットから複数論理量子ビットへの拡張には、新しいエンジニアリング課題と新たなエラー経路の管理が必要になるとみられる。IBMのロードマップでも、効率的なコードとリアルタイムデコーダのパイプラインがスケーリングの鍵と位置づけられている。

第4に、競合技術の動向。中性原子方式(Caltechの6,100量子ビット、AtomComputing)、イオントラップ(Quantinuum、IonQ)、トポロジカル(Microsoft、QuTech/CSIC)など、それぞれが独自の経路で進展している。超伝導方式が最終的に勝者となる保証はなく、各方式の長所短所が組み合わさるハイブリッド構成になる可能性もある。

商用化までの距離について、業界全般のコンセンサスとしては、暗号解読レベルの誤り耐性量子計算は2030年代後半以降、有用な計算が実用化されるのは2030年前後から段階的に、というのが一般的な見方になっている。今回の成果はその時間軸を前倒しする可能性があるものの、決定的に加速するとまでは言い切れない段階。

業界全体では誤り訂正時代(error correction era)に入ったとされ、今後の焦点は誤り訂正を反復可能・自動化可能・経済的にスケーラブルにすることに移っていくとみられる。複数のグループが閾値以下動作を達成したことで、次の競争軸は論理量子ビットの積層と実計算実行時のエラー予算管理に移行していく可能性がある。