論文の正式名称はA tweezer array with 6100 highly coherent atomic qubits。Nature 2025年11月号(オンライン版は9月24日掲載)に載った全8ページの研究論文で、量子コンピュータの基盤となる中性原子配列を、規模・コヒーレンス時間・操作精度の3つの軸で同時に塗り替えた成果を報告している。

論文の基本情報

項目

内容

タイトル

A tweezer array with 6100 highly coherent atomic qubits

著者

Hannah J. Manetsch, Gyohei Nomura, Elie Bataille, Xudong Lv, Kon H. Leung, Manuel Endres

所属

Caltech(うちXudong Lv氏は現在、中国科学院 上海光学精密机械研究所)

掲載誌

Nature, 647巻8088号, p.60-67

オンライン掲載

2025年9月24日

DOI

10.1038/s41586-025-09641-4

資金

Gordon and Betty Moore Foundation、米政府機関ほか

論文の問い

中性原子の光ピンセット配列は、量子コンピュータ・量子シミュレーション・量子計測の主要プラットフォームとなってきた。ただし従来は数十〜数百原子規模で、最近1,000個規模に挑んだ例も量子ビットとしての定義やコヒーレント制御を伴っていなかった。論文が立てた問いはシンプルで、長いコヒーレンス時間、低損失、高精度のイメージングを保ったまま、数千量子ビット規模へスケールできるかという点。これは誤り訂正型の量子コンピュータに進むうえで避けて通れない課題だった。

何を実証したのか

論文は1つの実験装置で複数の最先端記録を同時に達成した点が特徴。具体的な数値は以下のとおり。

性能指標

達成値

トラップサイト数

11,998カ所(光ピンセット)

実際にトラップした原子数

6,100個超(セシウム133原子)

原子配置の間隔

7.2 マイクロメートル

視野(FOV)

直径1.5 mm

ハイパーファイン量子ビットのコヒーレンス時間

12.6(1)秒

単一原子イメージング生存率

99.99374(8)%

真空寿命(室温装置)

22.9(1)分

単一量子ビット操作の精度

99.98%

11,998個の光ピンセットを用意し、その約半分にセシウム原子が確率的に捕獲されることで6,100個超の量子ビットを並べたかたち。原子と原子は7.2マイクロメートル間隔で並び、直径わずか1.5 mmの円の中に6,100個の原子が点光源のように浮かんでいる。

論文の技術的なポイント

論文を読み解くうえで核となる工夫は3つに整理できる。

1つ目はレーザー波長と原子の選び方。セシウム133は、安定なアルカリ金属の中で近赤外波長における分極率が最も高い。市販のファイバー増幅器が出せる100W超の連続波レーザーと組み合わせると、十分な深さのトラップを大量に作れる。さらにトラップ波長を1061 nm と1055 nm の近赤外に設定し、原子の主な電気双極子遷移から大きく離調することで、光子散乱や位相ずれによるコヒーレンス劣化を抑えている。

2つ目は2つの空間光変調器(SLM)を使った大規模ピンセット生成。1061 nm と1055 nm のビームを直交偏光で合成し、開口数(NA)0.65の対物レンズで焦点を結ぶ構成。これで12,000カ所近いトラップを同時に作り出している。

3つ目は室温の真空チャンバーで長寿命を実現した点。これまで大規模化と高品質の両立には極低温装置が必要と考えられていたが、特別設計の室温チャンバーで真空寿命22.9分を達成し、現実的な操作時間を確保した。

論文が示した別の重要な性質

論文は並べただけでなく、原子を動かしながら量子状態を保てることも示している。数百マイクロメートルにわたって原子をシャトル移動させながら重ね合わせ状態を維持できるという結果は、誤り訂正コードを効率よく実装するうえで重要な特徴になる。誤り訂正では、データ量子ビットと補助量子ビットを物理的に近づけたり離したりする操作が頻発するため、移動耐性は不可欠の要素になっている。

論文の位置づけ

著者らは abstract で、本研究を量子科学の進展、特に量子誤り訂正に向けて重要なステップと位置づけている。中性原子方式は超伝導方式やイオントラップ方式と並ぶ主要候補で、これまで弱点とされてきた規模拡大時の品質維持を一気に解決したかたち。次の課題は、この6,100量子ビット配列の上でエンタングルメント操作と量子論理ゲートを大規模に実装すること。論文は building block がそろったことを示しただけで、量子計算そのものを行ったわけではない点に留意したい。

Caltechの6,100量子ビット配列を技術解説 何が壁で、何を破ったのか

Caltechのチームが達成した6,100量子ビット配列。数を増やしただけでなく、コヒーレンス時間、操作精度、イメージング生存率の全てで同時に最先端記録を塗り替えた。なぜここまで難しかったのか、どの壁を破ったのか、そして他方式と比べた強みはどこにあるのか。技術の中身を整理する。

どのような技術か

中性原子を光ピンセット(高度に集束させたレーザー)で1個ずつ宙にとらえ、格子状に並べる方式。今回はセシウム133原子を11,998カ所のトラップサイトに対して確率的にロードし、6,100個超を実際に保持した。原子と原子の間隔は7.2マイクロメートル、全体は直径1.5 mmの円の中に収まる。1個の原子の中にある2つのエネルギー状態(ハイパーファイン準位)を使って0と1を表現し、これを量子ビットとして使う。トラップ波長は1061 nm と1055 nm の近赤外で、原子の主な遷移から大きく離調させて干渉を抑えている。

なぜ今までできなかったのか 技術的な壁ごとに整理

中性原子方式は10年以上前から研究されてきたが、長らく数百量子ビットが壁だった。ここを越えられなかった理由は4つに分けられる。

壁の1つめは、レーザーパワー不足。光ピンセットは1カ所あたり一定以上のレーザー強度が必要で、トラップ数が増えるほど合計パワーが膨大になる。Caltechチームは、近赤外で最も分極率が高いセシウムを採用し、市販ファイバー増幅器の100W超の連続波出力で12,000カ所近いトラップを実現した。原子の選択と光源技術の進歩が組み合わさって、ようやく数千の壁を越えられた。

壁の2つめは、コヒーレンス時間の維持。原子をたくさん並べると、トラップ用レーザーから受ける散乱や位相ずれで量子状態がすぐ壊れていた。従来の中性原子ピンセット配列ではコヒーレンス時間が2秒未満だった。今回はトラップ波長を原子の電気双極子遷移から大きく離調させる設計で、12.6秒という記録的な長さを達成。これは従来比で約10倍にあたる。

壁の3つめは、イメージング生存率。量子ビットを読み取るには原子に光を当てる必要があるが、光を当てると一定確率で原子がトラップから飛び出す。原子1個あたりの生存率が99%でも、6,000個並べれば全体が無傷で残る確率はほぼゼロになる。Caltechは99.99374%という極めて高い生存率を達成し、大規模化に必要な品質を確保した。

壁の4つめは、真空寿命。原子は背景ガスとの衝突で失われていくため、真空が悪いと操作中に原子がどんどん減る。これまで大規模配列には極低温装置が必要と考えられていたが、Caltechは特別設計の室温真空チャンバーで22.9分の真空寿命を実現した。室温で運用できることは、装置の単純化とコスト面で大きな意味を持つ。

何が最先端なのか

注目すべきは、これらの記録を同時に達成したこと。1つの指標だけなら従来研究にも近い数字はあった。しかし6,100量子ビット、コヒーレンス12.6秒、操作精度99.98%、イメージング生存率99.99374%、真空寿命22.9分を1つの装置で並立させた例はなかった。

さらに重要な追加実証として、原子を数百マイクロメートル移動させながら重ね合わせ状態を維持できることを示した点がある。量子誤り訂正ではデータ量子ビットと補助量子ビットを動的に組み替える必要があり、移動耐性は実用化の前提になる。並べただけでなく動かせることを示したのが、この論文を単なる規模記録で終わらせなかった理由。

ほかの技術との優位性は

量子コンピュータの主要方式は中性原子、超伝導、イオントラップの3つ。それぞれの現状を比べると、

方式

量子ビット数の規模感

強み

弱み

中性原子(今回)

6,100個

大規模化が容易、室温運用可、原子を動かせる、配列の再構成が柔軟

ゲート速度が遅い、2量子ビットゲートの精度が他方式より低め

超伝導(IBM、Google)

約1,000個前後

ゲート速度が速い、半導体製造技術と親和性が高い

極低温(数mK)が必須、配線が物理的に増やせない、誤り率高め

イオントラップ(IonQ、Quantinuum)

数十〜100個程度

量子ビット品質が最高水準、長いコヒーレンス

規模拡大が極めて難しい、操作が遅い

中性原子方式の最大の優位性は3つに集約できる。

1つめはスケーラビリティの上限の高さ。超伝導方式は冷凍機の物理的サイズと配線数で頭打ちになりやすく、イオントラップはイオン同士の相互作用の制御が大規模化を阻む。中性原子はレーザーで作る仮想的な格子なので、原理的にはレーザーパワーと光学系の許す限り拡張できる。

2つめは室温運用の現実性。超伝導方式は希釈冷凍機が必須で装置全体が巨大化するが、中性原子は室温チャンバーで動く。これは将来の量子データセンター構想で運用コストを大きく左右する要素になる。

3つめは原子の移動と再構成。光ピンセットの位置はレーザーで自由に変えられるため、原子を動的に並べ替えられる。これは超伝導の固定配線では不可能で、誤り訂正コードの実装で大きなアドバンテージになる。

一方で弱点も明確で、現時点での2量子ビットゲート精度は超伝導やイオントラップに及ばない。論文もbuilding block がそろった段階としており、ゲート操作の本格実証はこれからの課題と位置づけられている。

この技術は何に繋がるのか

直接の出口は量子誤り訂正型コンピュータ。量子計算の致命的な弱点は、量子ビットがすぐに壊れること。これを解決するには複数の物理量子ビットを1つの論理量子ビットにまとめて誤りを訂正する仕組みが必要で、有力な surface code 方式では1つの論理量子ビットに数百〜数千の物理量子ビットが必要とされている。

つまり、実用的な計算をするためには論理量子ビット1個あたり数千の物理量子ビットを束ね、その論理量子ビットをさらに何百〜何千と並べる必要がある。古典スーパーコンピュータを超えるには物理量子ビットで数百万個規模が必要と見積もられており、今回の6,100量子ビット配列は、その数百万個への入口に立ったことになる。

中性原子方式が描いている将来像は3段階に整理できる。

短期(数年)では、6,100量子ビットの上で2量子ビットゲートと簡単な誤り訂正コードを実装する段階。論文の次のステップに位置する。

中期(2030年前後)では、数万量子ビット規模の中性原子配列で、論理量子ビットを安定動作させる段階。化学計算や材料設計の初期応用が見えてくる。

長期(2030年代後半以降)では、複数の中性原子マシンをネットワーク接続した量子データセンター。先のStanfordの光キャビティアレイ(読み出しと光ネットワーク接続を担う技術)と組み合わせ、数百万量子ビット規模の分散量子計算を実現する構想がある。

具体的な応用先は、新材料の設計、創薬、暗号解読(と耐量子暗号への移行)、金融最適化、気候シミュレーション、基礎物理の量子シミュレーションなど。今回の論文自体は基礎研究の成果だが、その上に何を積み上げていくかという土台のサイズが一気に拡張された意味は大きい。投資の文脈で見ると、中性原子方式に取り組むAtom Computing、QuEra、Pasqal などのプライベート企業が、この成果を背景に資金調達や技術ロードマップの加速を進めていく流れが続く見込み。