1. 何があったのか

論文タイトルはContinuous-variable multipartite entanglement in an integrated microcomb(Nature 639, 329-336、2025年2月19日オンライン掲載、DOI: 10.1038/s41586-025-08602-1)。北京大学物理学院の王剣威教授、龔旗煌教授、賈鑫宇博士課程学生と、山西大学光電子研究所の蘇暁龍教授チームを中心とする共同研究で、シリコン窒化膜(SiN)の集積マイクロリング共振器を用いて、連続変数の8モード多者間もつれを決定論的に生成することに成功した。マイクロコム(光周波数コム)基盤での多者間量子もつれ実証は世界初。光ホモダイン検出でもつれ構造を厳密に検証し、リコンフィギャラブルなクラスター状態の生成も実演した。同チームは1年後の2026年2月にNature Photonics誌に続報として、集積光量子技術を用いた大規模量子通信ネットワークの研究も発表している。

2. なぜ今までできなかったのか

集積光量子は2つの符号化方式があり、それぞれ別の壁を抱えてきた。

ポイントを整理する。

  • 離散変数方式(単一光子の偏光や経路で量子情報を符号化)は、光子同士の相互作用がチップ上で起こりにくく、もつれ生成が確率的にしかできない。

  • 連続変数方式(光の直交位相成分qと運動量pで情報を符号化)は決定論的にもつれを作れるが、これまでチップ上では2モードまでしか実現できていなかった。

  • マイクロリング共振器でマイクロコムを安定励起し、複数の周波数モード間に同時にもつれを作るには、ポンプ光の精密制御と低損失導波路の両立が必要だった。

  • ホモダイン検出を多モード並列で行う技術がチップ規模で未成熟だった。

  • スクイーズド真空状態(量子もつれの基本要素)の生成効率がチップ規模では限界があった。

例えるなら、ピアノの鍵盤を1音ずつ叩いて偶然和音になるのを待つのが離散変数方式、和音を直接奏でられるが2音までしか同時に鳴らせなかったのが連続変数方式。今回は8音同時に和音を奏でることに成功した、というイメージに近い。

3. 既存技術との比較

項目

従来の連続変数光量子(チップ)

今回(北京大学)

離散変数光量子(チップ)

もつれモード数

2モード

8モード

単一光子の確率的もつれ

もつれ生成方式

決定論的

決定論的

確率的

チップ集積度

部分集積

集積マイクロコム基盤

大規模(2,500素子規模も実証)

プラットフォーム

バルク光学が中心

シリコン窒化膜マイクロコム

Si/SiNフォトニクス

動作温度

室温(検出器除く)

室温(検出器除く)

室温(検出器除く)

スケーリング制約

多モード生成

8モード以上への拡張

単一光子源の効率

ベンチマーク用途

限定的

量子計算・通信・計測の3応用

ボソンサンプリング等

4. どうやって実現したのか

用語を整理する。

連続変数(CV)量子光学では、光の電場の直交位相成分qとpという連続的な物理量に量子情報を符号化する。2値の0と1ではなく、振幅のような連続値を量子状態とする方式で、決定論的な操作が可能。

量子モード(qumode)は連続変数の量子情報単位。離散変数の量子ビットに対応する概念。

マイクロコム(光周波数コム)は、マイクロリング共振器の中で非線形光学効果により多数の等間隔な周波数線が同時に発生する光源。1つのレーザーから多数の周波数モードを一気に作り出せる。

スクイーズド真空状態は、片方の直交成分の量子揺らぎが標準量子限界より小さい状態。連続変数量子情報の基本要素。

クラスター状態は、多数のモード間にもつれを生成した特殊な量子状態。測定型量子計算(MBQC)の入力資源として使われる。

ホモダイン検出は光の直交位相成分を測定する手法。連続変数の量子状態を読み出すのに必要。

実装の核心は3点に整理できる。

1つめはシリコン窒化膜のマイクロリング共振器で、パラメトリック発振の閾値以下で動作させ、多モードのスクイーズド真空光周波数コムを生成する。

2つめは多色ポンプ(polychromatic pump)技術で、複数の周波数のポンプ光を同時にコムに照射し、異なる周波数モード間にもつれを誘起する。

3つめは多色ホモダイン検出で、各周波数モードを並列に独立測定し、もつれ構造を読み出す。

8モード状態の不可分性(inseparability)が厳密に検証され、リコンフィギャラブルなクラスター状態への変換も実証された。王剣威教授は連続変数量子チップを先駆的に開発し、チップ上で決定論的にクラスター状態を生成できるようにしたと述べている。

5. 何ができたのか(成果)

指標

数値・結果

業界水準

もつれモード数

8モード

従来は2モードまで

もつれ生成方式

決定論的

連続変数の利点を活用

チップ素材

シリコン窒化膜(SiN)

標準CMOS互換

動作モード

パラメトリック発振閾値以下

安定動作

クラスター状態

複数構造をリコンフィギャラブルに生成

測定型量子計算の前提

動作温度

室温

検出器を除く

続報(2026年2月)

集積光量子による大規模量子通信網

Nature Photonics掲載

技術的意義は3点に整理できる。

1つめは、決定論的多者間もつれを集積チップで実現した点。これまで連続変数のチップ実装は2モードに頭打ちで、スケーリングへの道筋が見えていなかった。8モードへの拡張は、測定型量子計算(MBQC)に必要なクラスター状態を集積技術で作り出す現実性を示した。

2つめは、マイクロコム基盤という拡張性。マイクロリング共振器1つから多数の周波数モードを引き出せるため、原理的にはモード数のさらなる拡張が見込まれる。

3つめは、量子計算・量子通信・量子計測の3つの応用領域に共通する基盤技術である点。クラスター状態は測定型量子計算の入力に、多者間もつれは量子ネットワークの分散資源に、スクイーズド光は量子計測の感度向上にそれぞれ使える。

6. この技術が広がると何が起きるか

応用とインパクトを整理する。

領域

インパクト

測定型量子計算

クラスター状態を集積生成、室温動作の量子計算プラットフォーム

量子通信ネットワーク

多者間もつれを分散資源として活用、量子インターネットの基礎

量子センシング・計測

スクイーズド光による感度向上、重力波検出やバイオセンシングへの応用

半導体集積光量子

SiN/CMOS互換プロセスでの量子チップ製造

中国の光量子戦略

USTC Jiuzhang(離散変数)と北京大学(連続変数)の二刀流体制

量子データセンター

室温で動く光量子モジュールが分散計算の核に

社会的意義として最も重要なのは、光量子計算が室温で動く集積プラットフォームへ近づいた点。超伝導中性原子のような大型の極低温装置が不要で、装置の小型化と低コスト化が見込まれる。長期的には量子データセンター構想や量子インターネットのノード装置として、集積光量子チップが中核になる可能性がある。

ただし業界の冷静な評価として、本成果を量子計算チップと呼ぶのは過大評価との指摘がある点に注意したい。今回のチップはもつれ資源の生成器であって、汎用的な量子アルゴリズムを実行するゲート型量子計算機ではない。汎用量子計算には、もつれに加えて非ガウス操作(マジック状態に相当)や測定型量子計算プロトコルの完全実装が必要で、そこには大きな距離がある。論文自身も量子計算の基盤技術量子情報のスケーラブルな前提として位置づけており、計算チップそのものとは区別している。新華社など中国国営メディアの報道タイトルが光量子チップ大きな飛躍と煽る傾向がある点も、冷静な技術評価とは温度差がある。

7. 関連企業・市場動向

企業

関連分野

ティッカー

PsiQuantum

光量子計算(米、非上場、SoftBank出資)

非上場

Xanadu

連続変数光量子(カナダ、非上場)

非上場

Quandela

光量子計算(仏、非上場)

非上場

ORCA Computing

光量子計算(英、非上場)

非上場

Quantum Computing

フォトニック量子(米上場)

QUBT

Lightwave Logic

電気光学ポリマー材料

LWLG

POET Technologies

光電子集積

POET

Coherent

レーザー・光学部品

COHR

ams OSRAM

光半導体

AMS.SW

Hamamatsu Photonics

光検出器

6965.T

富士通

光集積、量子

6702.T

NTT

光ネットワーク、量子

9432.T

投資視点では、連続変数光量子のピュアプレイ上場銘柄はXanaduがその代表だが未上場。米国のPsiQuantumも未上場で、IPOがあれば光量子分野の代表銘柄になる可能性がある。間接的に恩恵を受けるのは、SiN/CMOS互換プロセスの製造装置メーカー、光電子集積(POET)、電気光学材料(LWLG)などのフォトニクス関連銘柄。中国側のプレイヤーは非上場が中心で、北京大学発スタートアップが今後上場すれば注目される可能性がある。

なお投資判断は読者各自の責任で行うべきであり、本記事は技術解説を目的としている。光量子分野は規模の小さい銘柄が多く、ニュースに対する株価反応も大きい点に注意したい。

8. 課題と今後の展望

冷静に見るべき残課題は多い。

第1に、8モードもつれは画期的だが、有意義な量子計算には数百〜数千モードが必要とされる。マイクロコムの帯域とモード間スクイージング品質の同時拡張がこれからの課題になる。

第2に、本成果は決定論的もつれ生成までを示したもので、量子ゲート操作や量子アルゴリズムの実行は対象外。汎用量子計算チップとして機能するには、非ガウス操作の集積実装と測定型量子計算プロトコルの完成が必要になる。

第3に、競合の動向。USTCのJiuzhang 4.0(2026年5月)は3,050光子の検出という規模で光量子優位性を示したが、ガウシアンボソンサンプリングという特定問題に最適化された装置で汎用性はない。Xanaduはクラウド経由で連続変数光量子の利用環境(Borealis、X8)を提供している。PsiQuantumは離散変数の融合ベース量子計算で大規模化を狙う。連続変数と離散変数のどちらが汎用量子計算の主流になるかは未確定とみられる。

第4に、商用化までの距離。集積マイクロコムの量産技術、低損失導波路の歩留まり改善、多モード並列ホモダイン検出器の集積など、エンジニアリング課題は多岐にわたる。実用的な量子計算チップとしての完成は2030年代以降の可能性が高いとみられる。

業界全体の文脈で言えば、中国は光量子分野でJiuzhang系列(USTC、離散変数)と北京大学のマイクロコム系列(連続変数)の二本柱を確立しつつあり、米国のPsiQuantum・Xanaduや欧州のQuandelaに対する対抗軸を作っているとみられる。北京大学チームは続報のNature Photonics論文(2026年2月)で大規模量子通信ネットワーク構築を示しており、量子計算だけでなく量子通信網への応用展開も進んでいる。開発速度は速く、次のマイルストーンはモード数の拡大と、簡単な測定型量子計算プロトコルの実機実証になるとみられる。

中国全体としては、量子コンピュータ(超伝導Zuchongzhi系列、光量子Jiuzhang系列、連続変数光量子)、量子通信(墨子号衛星、QuantumCTek)、量子計測の三本柱で量子技術覇権を狙う構図が鮮明になっており、米中量子覇権競争における中国側の存在感は今後も増す可能性がある。